ひとりよがり

無気力美大生を経て社会人となったデザイナーの独り言

情熱がない

私は情熱が分からない。
 
正しく言えば、それがどんなものかは理解できるが実感したことがほとんどない。
 
今までの情熱的な体験として、必死に取り組んだことと言えば中学受験くらいだろうか。
そのくらいの年齢の頃にはあったのかもしれない。
 
大学受験も努力はしたが、離人症状態で臨んだためぼんやりとしていた。
ダメだったら一般大へ行こうというテンションで、ここで落ちたら芸術系とは御縁がないということで、諦めよう。
そんなことを思っていた。
 
それでも中学生で美大行きを決めた時は、この道の中に一生やっていきたいことの糸口が見つけられると思っていたのだろう。
最初の最初はそうだったはずだ。おそらく。
 
初心を思い出せとよく言うが、はっきりと思い出せる初心がないのが悲しいところだ。
思い出す初心がそもそもない……という虚しさ。
 
将来の糸口が美大にあるだろうという予感も受験前には既になんとなく疑い始めていた。
悪く考えるな、入学すれば変わるはずだ、やってもいないのに決めつけるのは良くないと否定したが。
 
結局紆余曲折を経て入学した時点で、自分はやりたいことが見つからず卒業制作では地獄を見るだろうと、確信めいたものがはっきり胸に浮かんでいた。
 
そして実際その通りになってしまった。
悲しいほど卒業制作は失敗だった。
あまりの有様に我慢ならず、展示スペースをろくに見られなかった。他の人の作品も含めて。
本当に展示したくなかったが仕方がなかった。
離人感でなんとか乗り切った。
こういう時に離人に頼るから治らないのだ。
 
卒業制作を終えて、来ると分かっていた未来を避けられない、変えられない苦しみを知った。
 
受験前の漠然とした疑問は現実になった。
私が第六感を信じるようになった最大の理由はこれかもしれない。
 
違和感や第六感というものは自分にとって相当見過ごしてはならない要素だ。
それらは言葉として結実する前の正直な気持ちだと思う。
 
しかし違和感に気が付いても現実と照らし合わせる過程で無視せざるを得なかったり、後から来る思考で打ち消したりして無かったことになる場合がままある。
 
フィルターを通さない素直な気持ちは自分でも分かりにくい。
雑念に塗れた理性ですぐに消えてしまう。
 
 
しかしこんなことになりながらも、何故まだ私は大学院という形で美大に通っているのか。
 
中学生の時から目指してきたから諦められないとか、他に道がないとか、現実逃避がしたいだとか、もう様々な邪念に入り乱れてこんなことになってしまったわけだが、しがみつくからにはやらなければどうしようもない。
 
マグロと同じで止まれば死ぬのだ。
制作できないデザイナーに価値無しだ。
 
あなたは何が一番好きか?
何に最も興味を持つか?
何をするのが幸せか?
何を一生続けたいか?
 
そう問われた時本当に答えようがなくて、私はそういう気持ちを今までろくに持ったことがないと告げるしかなかった。
 
 
昔から、盛り上がる人を横目で見ているようなポジションで生きてきた。
時たま中心部の人達に誘われれば輪に入り、そしてそこそこで抜ける。
 
楽しい時も、何をする時もどこかに俯瞰的な自分、セーブをかける自分がいないと落ち着かない。
 
熱中するのが何故か怖い。
自制心を持ち続けたい。
気分の高揚によって自分を見失いたくない。
 
冷静でいることによって人の優位に立とうとしてしまう。理性的であることで自分をコントロールしたい。常に思うように自分を動かしたい。
 
 
どんな時も自己批判的な考えが頭に浮かぶ。
 
何をしても、
それは間違っているのではないか?
と批判を自分にぶつけることを忘れない。
 
制作する時などいつもそうだ。
楽しそう、これでいこう!という思いが浮かぶと、何が面白いの?どこが新しいの?と声を掛ける。
 
作品を見せる時、どんなことを言われても、分かっていましたよ、という顔をしたい。
自分を自分で攻撃する、自虐することで予防線を張るのだ。
 
自分を貶すのは良くないが、他人からの批判に弱い精神を崩れさせないためには、予めこうしておく必要があるのだ。少なくとも私には。
 
あらゆる視点を自分の中に持つことが必要な場面は多々あるが、度が過ぎるとどれが自分にとって重要な考えなのか分からなくなってしまう。
 
こんなところも離人症に繋がる要因だろう。
 
 
情熱を持てないのは、何をやってもそれなりだったからかもしれない。
 
だいたいどれも60から70点くらいの点数。
別にいいじゃないか、むしろ自慢かと思う人もいるかもしれない。
 
ただ赤点が取りたくないから、失敗したくないからこうなるのだ。満遍なく、こだわりもなく、淡々と取り組むだけである。
 
器用貧乏という言葉が思い浮かんだが、特段優れているわけではないので当てはまらないと思い直した。
 
しかし全てが平均的というのはつまらない。
格闘ゲームキャラクターの能力値はバラツキがあったり極端な部分がある方が面白かったりする。
 
人間も似ている。
どこか突出して優れていて、突出してダメなところがある人の方が面白い。なんでもソツなくこなす優等生は、凄いけどちょっとつまらない。
 
自分は優等生ではないが、突出したところがないという共通点がある。
情熱だとか執着心だとか、持つだけ辛いと心のどこかで思い込んでいるから得られないのだろうか。
 
 

恐れるほど、それに近づいていく

何故作品が作れないのか
何故作る気が起こらないのか
何故作りたくないのか

それを突き詰めて考えることを回避してきた。

漠然とした嫌悪感があることしか分からなかったからだ。

私は天才ではない。凡人だ。

教授はあくまで一学生でしかない私に天才的な作品を求めてはいないだろう。
両親も私が世界的に著名なデザイナーになることを望んでいるわけではない。
手に職をつけ好きなことを仕事にして幸せに生きていって欲しいと願っている。

誰も私に厳しすぎるプレッシャーをかけてはいないのだ。

それなのに何故こうも周囲の視線ばかり気にしてしまうのか。


優秀でなくては
いい成績を取らなくては
世間体のいい職に就かなければ
経済力を持たなくては

ありきたりな思考だが、どうもここから逃れられないばかりにより物事が悪化していっているような気がする。

確かに両親は私に世間体の良さを求めるところがある人達だった。
しかしそれを現在の自分に対する不満の言い訳にすることはできないだろう。

ネガティブ思考が様々なことを悪く捉えてしまい、皮肉的な構え方をしてしまう。

物事にはプラス面、マイナス面と両方あることが多いにも関わらず、負の側面ばかりに目を向けてきた。


「デザイナーになれば自己実現が出来るかもしれないけれど、競争が多いし残業もあるし、夢見るような甘い世界じゃない」
(だから私には出来ないだろう)

「教師になれば生徒と関わって人の役に立てるかもしれないけれど、いじめ問題やモンペのことで苦労するかもしれない、心身を壊す可能性が高いかもしれない」
(だから私には出来ないだろう)


私は夢見るお花畑さんではありません。
現実をきちんと直視しています。

そういう気持ちでいたため、負の側面を必ず見るようにしていた。
いや、負の側面ばかり見ていたのだ。


悪いようになったらどうしよう
悪いようになってしまうに違いない

ずっと悪いことばかり考えていれば、そのように行動も変わっていき、結局恐れていた展開に結びついてしまう。

思考が行動に変わってしまう。
行動は結果を変えてしまう。

悪いことは、考えない。

現実逃避のようでもあるが、その方が良いのかもしれない。

五月病

気分が落ち込むと本当に何も出来なくて困る。

布団で寝ながらインターネットをやるか、ぼーっと自己嫌悪的な考えを巡らせるかだ。

そういった現実逃避は、現実をより過酷なものにし罪悪感で精神を蝕んでいくばかりである。 

大学院に入学し気分を改めたつもりが、早速やりたくない病に陥ってしまった。
デザインのことを考えるだけで体調が悪くなる。

やはり私はデザインが嫌いなのだろうか。
作ることが嫌いなのだろうか。

何故やりたくないのだろうか。

上手く作れないから?
人の前で発表するのが恥ずかしいから?

言葉にしてみればこんなこと誰でもそうでしょといった感じだが、これだけではないような拒絶反応を示してしまう自分が理解できない。

情熱が追いつかないのか。

しかしこのような状態では困るのだ。
自主性が命の大学院においては死活問題だ。

教授の目線も冷ややかなものになってきた。

気分が乗らなくて〜…
何をしたらいいか分からなくて〜…
決められなくて〜…

そんな言い訳が通用するところではない。

私がもし教授だったならばふざけるなと言いたくなるだろう。
やる気がないならやめろと。

学生は常に悩んでいるものだ。
悩まなくていいことをテーマにしても仕方がない。
問題がないことを解決する必要はない。

しかしやりたくなくて悩むことと、やりたい問題が解決出来なくて悩むことでは大違いである。

自暴自棄状態が続いているので早く解決したい。
情緒不安定なので出来ません、など社会人になれば通用しない。

最初の5分を切り抜けられれば続けられるのだ。
そのはじめの一歩が辛い。

机に座るところから難しいのだ。
昔の自分から見てみれば考えられないことだ。

夏休みの宿題を夏休みが始まる前に終わらせる性格だった頃の私は、きっと今の私を見て泣いているだろう。

惨めで涙も出ない。

デザイナーは末端の仕事なのか

思った通り継続は難しく間が空いてしまった。

文章を書くことは自分と向き合うことなので、落ち込んでいる時や現実逃避をしたい時には避けてしまいがちだ。
 
 
この二ヶ月間では卒業制作展、卒業式、入学式と大きなイベントが立て続けにあったせいかあっという間に過ぎた。
またそれ以外のイベントで、少し大変な怪我をしてしまい心身共に大波に乗っていた。
 
新学期が始まり環境が変わると疲れるのは当たり前だが、私は大学院(それも同じ大学の)への進学で、教授は見知った人だし友人もいるのでストレスは少ない方だと思う。
 
デザイン事務所や会社へ勤め始めた行った他の友人達はかなりストレスフルな様子で、体調を崩したり精神面に打撃を受けている人もいて心配だ。
 
デザイン事務所や少人数の会社では、人間関係がうまくいかなかったりすると短いスパンでは入社して3ヶ月と経たず辞める人もいる。
デザイン業界は転職が珍しいことではないので、終身雇用的な事を考えて職探しをしている人はあまりいない。
それ以前にお給料や保険のことを最重要視している人がほとんどいない。
やりがいや自分に合っていることを探し求めて、それが得られそうならば過酷な環境には目を瞑る。
一見情熱的で夢のある生き方だが、健康には厳しい状況に傾きやすいのかもしれない。
 
私生活を犠牲にしてでもいいものを作る。
そのくらいの心意気は必要かもしれない。
 
しかし実際、それだけのものを作れているのだろうか。
今の日本のデザインを関係者以外の人はどう思っているのだろう。
 
街中にある、パッケージやポスター、CMなど、溢れかえるデザインされたもの達を見て購買欲だけでない情動を動かされる人がどれだけいるだろう。
そこに美しさや豊かな感情を呼び起こさせる何かがきちんと存在しているだろうか。
 
 
この間とある集まりで、誰もが知るメーカーのディレクターに会う機会があった。
 
そこでその人にこのようなことを言われた。
 
「君たちには悪いけれど、デザイナーは末端だからね。お金も時間も制限が多い」
 
「コンペ(案を皆で出し合い良いものを選ぶこと)ってあるけど、あれは大人の事情で決まるんだよ。作品の質なんて、言っちゃ悪いけどある程度のラインを越えていればいいんだよ。大人の事情だよ」
 
他にも色々と実態を教えてもらったが、この二つは特に印象に残っている。
 
デザイナーの権限は低いということ。
使われる立場だということ。
 
デザインは質で選ばれるのではないということ。
お金やコネで決まるということ。
 
勿論全ての現場がそうではないはずだ。
デザイナーが率先して働いている所もあるだろうし、厳正なコンペが行われている所だってあるに違いない。
 
しかし、一方でこのような状況が沢山あることも事実だと思う。
教授から、デザイナーと上層部との対立の話を聞くこともあったので、理解していたつもりだった。
 
ただ実際働く人から直接そういった話を聞いたのは初めてだったのでショックを受けたのは事実だ。
おそらくこの現実はいずれ働き始めれば知ることになっていたのだとは思うが。
 
 
なんだ、やっぱり日本は芸術やデザインに理解がない。
分かってないやつらばかりだ。
 
(一応)デザイナー側の人間として、こう思ってしまうことがある。
周囲の友人達も口にすることがある。
 
これは難しい問題で、日本の文化や社会の在り方、そういう所にまで食い込むテーマだと思う。
 
芸術やデザインとは何か?
どのように存在しているのが正しいのか?美しいのか?
 
私自身勉強不足なこともあり、世間に真っ向勝負して、デザインはもっとこうあるべきだ!こういう理由で尊重されるべきだ!
と声高に主張する勇気や術を持てていない。
 
そもそも主張する必要性があるのかも正直に言うと分からないのだ。
 
世間の人達がもっとデザインに関心を持つようになれば、何が変わるのか。
何が良くなるのか。
誰が喜ぶのか。
 
私如きの大した人間でもないデザイナーもどきに何が出来るのか。
誰が聞いてくれるのか。見てくれるのか。
 
私は本当に真剣にデザインについて考えているのか。
社会の役に立つために行動できているか。
自分本位の主観的な生き方をしているのではないか。
 
不安ばかりが胸を埋め尽くす毎日だが(昔から根暗なので)、取り敢えず今は学生生活をきちんと送ることを心の軸として無駄なく時間を過ごしたい。
 
若い時間を失うのはあっという間だろう。
その最中にいる今ですらそれをひしひしと感じている。

一方通行的な〝約束〟の呪縛

父から一方的に押し付けられ交わしてしまった約束の束縛感に疲れることがある。

私の父は、親子間で約束を取り付けることがあるのだが、例えば

進路
テストの点数
部屋の管理

こういったことを「進路はこういう道へ行くと決めたことをパパと約束しなさい」という形で持ってくる。

一見しておかしいところは無いようだが、困る時があるのだ。

進路を変えたくなった時、万が一テストで思うように点数が取れなさそうな時、部屋が荷物で溢れた時、不測の事態になると、

約束したのに何故守らないのか。

という結果になるため裏切りの罪悪感を抱くことになる。


私は自分の目標は自分自身の中に打ち立てれば良いし、父や他の誰かのためにやるものではないと思っている。

進路は途中で変わるかもしれないし、テストの目標の点数だってそうだ。部屋は完全に綺麗でない時もあるだろう。

これくらいのペースで進めていくのが私としてはやりやすい。
何を甘いことをと思われるかもしれないが、無理をすると後に響くことを経験上分かっているのでそうしているのだ。

最善を尽くす努力はもちろん必要だ。
目標を持つことも必要だ。

ただしそれをいつも完璧にこなせるとは限らないし、そうなってしまった時に他者から常に責められてどうなるだろうか。

うまくいかなかった時はまた新しい目標を作ればいいのだ。


一度〝約束〟という形を組んでしまうと、それは絶対守らなければならないものとなってしまう。

進路はこうすると言ったじゃないか。
テストでこれだけ点数を取ると言ったじゃないか。
部屋の管理を毎日欠かさずやると言ったじゃないか。

守れなかった時、私は裏切り者である。
約束を破るとはそういうことだ。


父との約束はいつも一方通行である。

そもそも始まりからして、約束を結ぶことへの反対が許されない時点で本来あるべき約束の形になっていないのだ。

気持ちの良い約束とは、相互の信頼と納得の上にあるものだと思う。

約束することを嫌だと突っぱねればそれはおかしい、間違っていると否定される。
了承以外の返事は求められていないのである。

父は親子関係において力関係は完全に親の方が上だと考える人間だ。

子は基本的に親に従うべき生き物なのである。

父の立場からしてみれば、一度決めた進路を貫くこと、テストの点数に目標を定めてやり遂げること、常に部屋の管理に注意を払うことは全て正しいことである。

父の気持ちは分かる。
子どもの成長のためにやっているということも理解しているつもりだ。

おそらく誓わせることで確実なものとしたいのだろう。

確かに目標を必ずやり遂げようという意気込みは重要である。

しかしそれは自発的なものであらねばならない。

他者からいくらそうしろと言われても自身がその気にならなければ仕方が無いのだ。


お父さんと約束したからやらなくては
お母さんに言われたから守らなくては

多くのことが、このように主体が他者に移ってしまう状態になると、自分で目標を立て、達成するという自立したプロセスを踏むことが少なくなる。

エスカレートしてしまえば、誰かに言われたことしか出来ないということに繋がってしまうかもしれない。

実際私は親との約束や学校の課題といった提供される目標以外に自発的に取り組むことが出来なかったし、しなかった。

親に従うことが癪だという気持ちが沸いたり、約束通りに事を進めていると何だか言いなりになっているようで気に食わないと思うこともあったが、従い続けた。

納得していなかったはずなのに固執したのは、約束をルールという強制的なものと捉えていためである。

嫌々ながらも進める中、時たまうまくいかなかった時にかけられる「約束しただろう」という言葉は重りのようにのしかかってきた。

やらされているという意識が湧いてしまい、そこには自主性や活動的な気持ちはなかったように思う。


何かあれば

「約束しただろう」

と言えばいいことを考えると、親にとっては便利な方法かもしれない。

それが正当性のあるものであったり、双方にとって納得できるものであれば構わないが、一方がもう一方を従わせるために使われる〝約束という呪縛〟におそらく健全性はないだろう。

八つ当たりは構って欲しい気持ちの裏返し

私は時々自分の人生がいかに失敗であるかを親にぶつけてしまうことがあった。

幼い頃のしつけが厳しすぎたからルールばかりを尊重する面白みのない人間になってしまっただとか、バイトをさせてもらえなかったから好きなものが自由に買えなかっただとか、教職を取らされたせいで就活に支障が出ただとか…

このような被害者ぶったことだけではない。

なんで美大なんかに入ったんだろう、才能もない、能力もない、人格もない、楽しくない、人生これから辛くなるばかりだね…
私はこれから駄目な人間になっていって友達からも捨てられてしまうかもね、この歳で彼氏が出来ないから結婚も無理かもしれないね…

このように自業自得でしかないことを当り散らすこともあった。

それ以外にも覚えていないような下らないことでチクチクと攻撃したことを覚えている。

自分がいかに落ちぶれているかを思い知らせることで親に後悔させたかった。
子育てに何より力を入れていることを分かってわざとそんなことを言ったのだ。

あなた方の教育は失敗でしたよと遠回しにアピールした。それが1番ダメージを与えられると分かっていたからだ。

自分が正しいと信じてやまない(ように当時は見えていた)親の傲慢さだとか、高圧的な態度に反発する気持ちでいたので、それが間違っているとは少しも思わなかった。
私は被害者なのだからと。

八つ当たりをしているという意識すらなかった。
正当な主張をしていると思っていたからだ。


私は結局、親に八つ当たりをしてどんな返事が戻ってくることを期待していたのだろうか?


しつけが厳しすぎてマニュアル人間になってしまった!
「ごめんね、やりすぎだったよね。もっとあなたの意志を大切にしてあげればよかったね」

バイト禁止のせいで好きなものが買えなかった!
「ごめんね、もう大学生なのに親が口出しするなんておかしかったね。自由に働いて好きなものを買ったらいいよ」

教職課程のせいで就活に失敗した!
「ごめんね、教師にはなりたくないって言ってたのに強制させるようなことをしてしまったね。やりたくないことをさせるのは可哀想だったね」

人生これから辛くなるばかり!
「そんなことないよ。今までお父さんとお母さんとの約束をちゃんと守ってきたのだから。辛かった分これからいいことがたくさんあるに違いないよ。我慢を沢山させてごめんね」

落ちぶれて友達からも捨てられる!
「落ちぶれてなんていないよ。学校にもちゃんと行ったじゃない。大変だった教職課程も取って真面目にやってきたじゃない。その分の見返りがきっとあるよ。無理をしてやらせてしまってごめんね」





「ごめんね」




私は結局この言葉を言って欲しかったのだと思う。

なんでこんなことをさせたの!
なんでこんなことを言ったの!

と聞くと、これこれこうだったからよ、あなたのためだったのよ、駄目なものは駄目なのだから、といったように理由を言うだけで、自分が間違っていたかもしれないという返事を聞いたことは一度もなかった。

親が正しい、子どもは間違っている。
これがいつもの方程式だった。


親に言われてそうすることを選んだのは自分でしょう。反対することも出来たでしょう。だから最終的にはあなたが悪いのよ。


なんて勝手な人達だろうと思った。
強制させるようなことを言いながらそれを正当化するのかと。
押し付けておいて受け取った方が悪いと言うのかと。

この人達はおかしい!間違っている!
こんな一方通行でしかない教育は理不尽だ!

子どもは親の期待に応えようとする生き物で、私もそうしようとしたのに。
今までの健気な忍耐はどうなるのか?
報われる日が来ると信じていたし、親を幸せにできると信じてやってきたのに…

親のことは無視してよかったのか。
私にとって絶対的だったその生き方は間違っていたのか。
なぜもっと早く気が付かなかったのだろう?

いや、本当に無視することをあなた方は許しただろうか?
反発することを許さなかったのに、その発言は矛盾していないか?

嫌なら逆らえばいいなどと、どの口が言うのか…


一度被害者として自分を固定してしまうと、どんどん加害者の粗を探してはその立場を強くしてしまう。

そして自分の正当さを盾にすることで、相手を攻撃することに疑問を抱かなくなってしまう。

傷付けられたから傷付けてもいいと。
目には目を、歯には歯をである。

私が苦しむ原因は親である。
だからその諸悪の根源を正さなくては。

私の場合は八つ当たりがその方法だった。

言葉で勝てた経験がなく、真っ当な話し合いをする勇気もなかったので、さらりと言葉の中に毒を混ぜこみ投げ付けたのだ。

自虐は親の子を思う気持ちを傷付ける最大の方法だ。

親が私の幸福を思って行動していることは分かっていた。
ただ親の理想像を私に当てはめようとした時にずれが生じてしまっただけだ。
根底には愛があることを確信して実は安心していたから八つ当たりが出来たのだ。

苦しさや悔しさ、失望感や虚無感、無力感…
その気持ちを分かって欲しかっただけだった。

意思疎通をちゃんとしたかった。
話を聞いて認めて欲しかった。


確かに親には間違っているところがあったかもしれない。
いや、多分あったのだと思う。
被害者意識を抜きにしても。

では、自分はどうだっただろうか?

何か意に反することがあった時、本気で反対し説得しようとしただろうか?

面倒だから言うことを聞いておけばいいと、どこかで逃げていなかったか?

大人しくいいこちゃんでいる自分の生き方が賢いのだと思い上がってはいなかっただろうか?

間違っていたのは親だけだったのか?


今思えば、八つ当たりは構って欲しい気持ちの表れだった。

絶対に見捨てられないはずだという親との繋がりを確信していたからこそ出来たことだ。

贅沢な甘えだった。

私が親を許すためにやっていたつもりだったが、私が許される立場だったのだ。

大学生にもなってようやくこんなことに気が付く自分の未熟さは一体どんなに愚かなものであったか。

大きな反抗期がなかった分じわじわとそれが続いていたのかもしれない。

そもそもまだ終わっていないのかもしれないが、もう被害者でいることはやめようと思う。

自分を被害者と定義付けることをやめない限り、誰かを攻撃し続けてしまうのだから。

美大生は、良い意味で他人に無関心である

入学前の私にとって、美大とは個性や多様性が認められる自由な場所だという認識があった。

元々学校が苦手で、良くも悪くもあまり他人に関心がなかった私には、そういった環境がもし本当にあれば魅力的だと思っていた。

自分は自由に行動したい。
その代わり、相手の自由も認める。

私の人付き合いのスタンスは基本的にこういったところに根差している。

自分と性質の異なる人でも、出来るだけ嫌悪感を抱きたくないし、干渉はそこそこに留めておく。
程良い距離感を持つことで衝突を防ぎたいのだ。


所謂普通の大学生、特に文系の人達は、多くの人は学校での勉強の他に、サークルやバイトにも力を入れているイメージがある。(私の周囲にはそういう人が多い)

そこから生ずる多様な人間関係、繋がりがあるため、大きな世間の流れというものに乗りやすいのではないだろうか。
また一方そういった流れの中にいると、マイノリティに対する排除意識というものも出てくるかもしれない。

しかし美大生の会話で、たまに「一般大学生の同調意識が強いノリやテンションにはついていけないかも」といった話題が挙がることがあるのだが、少し偏見を持っているような気もしている。
美大は個性を許されるいい所だ、という特別意識というか、私達は普通の人達とは違う、という優越感を覚えている人をちらほら見かける。
その気持ちは分からなくもないが、私は美大というマイナーな居場所での選民意識は危険だと思っているので、そういった思考は控えるようにしている。


美大では基本的に制作が日常のメインとなるため、あまりサークルやバイトの優先順位は高くない。
皆自分の制作を第一として取り組むため、他人のことに構っていられないようなところがある。

そのため、他人の自由を許す寛大な心を持つ人が多いというよりも、自分のことに必死で結果的に人に攻撃的になる暇がないだけと言えるかもしれない。

しかしやるべきことのある人は他人に害をなさない、ということは素晴らしいと思う。

人生に目的を持って生きる人は、他者を排除したり迫害したり、そういった自らを貶めるような行為をすることはないだろう。
限りある自分のエネルギーの使い道を誤っては勿体ないと知っているからだ。


美大にいて良かったと思ったことの一つに、性的少数者への理解のある人が多いことがある。

私の周囲にはゲイやバイの人達が結構おり、それぞれ皆普通に受け入れられている。
隠すということもなく生活しているし、いちいち影で話題に挙がることもない。

私は恋愛をしたことがなく自分の嗜好がどうなのかよく分かっていないのだが、中高生時代には同性愛者なのではないかと疑われたり、今でも稀にそういった目を向けられることがある。
同性愛者や両性愛者だと思われることは全く構わないが、嫌悪感を含む小さな刺のある態度や言葉は、仕方がないにしても悲しいものだ。

世界や世間的には性的少数者の居場所は増えてきているし、昔より受け入れられているが、やはり身近な人となると難しい部分があるのかもしれない。

美大ではそういった扱いをされたことが一切ないため、とても居心地はいい。
人と違うことが推奨されるような場所なので、むしろ自分の普通さにコンプレックスを感じてしまうくらいである。


美大で4年間過ごしたが、自由さや過ごしやすさは概ね期待通りだったように思う。

多くの人が自らの取り組みに一生懸命で、その姿は美しく生命力に満ちているように見える。

自分の作品や人生の質を上げるために自分のために生きること。
それは決して自己中心という意味ではない。

自分のために時間や労力を使うことが、他人との良い距離感を生み、お互いの個を尊重することに繋がっていくのだ。