一方通行的な〝約束〟の呪縛
父から一方的に押し付けられ交わしてしまった約束の束縛感に疲れることがある。
私の父は、親子間で約束を取り付けることがあるのだが、例えば
進路
テストの点数
部屋の管理
こういったことを「進路はこういう道へ行くと決めたことをパパと約束しなさい」という形で持ってくる。
一見しておかしいところは無いようだが、困る時があるのだ。
進路を変えたくなった時、万が一テストで思うように点数が取れなさそうな時、部屋が荷物で溢れた時、不測の事態になると、
約束したのに何故守らないのか。
という結果になるため裏切りの罪悪感を抱くことになる。
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私は自分の目標は自分自身の中に打ち立てれば良いし、父や他の誰かのためにやるものではないと思っている。
進路は途中で変わるかもしれないし、テストの目標の点数だってそうだ。部屋は完全に綺麗でない時もあるだろう。
これくらいのペースで進めていくのが私としてはやりやすい。
何を甘いことをと思われるかもしれないが、無理をすると後に響くことを経験上分かっているのでそうしているのだ。
最善を尽くす努力はもちろん必要だ。
目標を持つことも必要だ。
ただしそれをいつも完璧にこなせるとは限らないし、そうなってしまった時に他者から常に責められてどうなるだろうか。
うまくいかなかった時はまた新しい目標を作ればいいのだ。
◆
一度〝約束〟という形を組んでしまうと、それは絶対守らなければならないものとなってしまう。
進路はこうすると言ったじゃないか。
テストでこれだけ点数を取ると言ったじゃないか。
部屋の管理を毎日欠かさずやると言ったじゃないか。
守れなかった時、私は裏切り者である。
約束を破るとはそういうことだ。
◆
父との約束はいつも一方通行である。
そもそも始まりからして、約束を結ぶことへの反対が許されない時点で本来あるべき約束の形になっていないのだ。
気持ちの良い約束とは、相互の信頼と納得の上にあるものだと思う。
約束することを嫌だと突っぱねればそれはおかしい、間違っていると否定される。
了承以外の返事は求められていないのである。
父は親子関係において力関係は完全に親の方が上だと考える人間だ。
子は基本的に親に従うべき生き物なのである。
父の立場からしてみれば、一度決めた進路を貫くこと、テストの点数に目標を定めてやり遂げること、常に部屋の管理に注意を払うことは全て正しいことである。
父の気持ちは分かる。
子どもの成長のためにやっているということも理解しているつもりだ。
おそらく誓わせることで確実なものとしたいのだろう。
確かに目標を必ずやり遂げようという意気込みは重要である。
しかしそれは自発的なものであらねばならない。
他者からいくらそうしろと言われても自身がその気にならなければ仕方が無いのだ。
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お父さんと約束したからやらなくては
お母さんに言われたから守らなくては
多くのことが、このように主体が他者に移ってしまう状態になると、自分で目標を立て、達成するという自立したプロセスを踏むことが少なくなる。
エスカレートしてしまえば、誰かに言われたことしか出来ないということに繋がってしまうかもしれない。
実際私は親との約束や学校の課題といった提供される目標以外に自発的に取り組むことが出来なかったし、しなかった。
親に従うことが癪だという気持ちが沸いたり、約束通りに事を進めていると何だか言いなりになっているようで気に食わないと思うこともあったが、従い続けた。
納得していなかったはずなのに固執したのは、約束をルールという強制的なものと捉えていためである。
嫌々ながらも進める中、時たまうまくいかなかった時にかけられる「約束しただろう」という言葉は重りのようにのしかかってきた。
やらされているという意識が湧いてしまい、そこには自主性や活動的な気持ちはなかったように思う。
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何かあれば
「約束しただろう」
と言えばいいことを考えると、親にとっては便利な方法かもしれない。
それが正当性のあるものであったり、双方にとって納得できるものであれば構わないが、一方がもう一方を従わせるために使われる〝約束という呪縛〟におそらく健全性はないだろう。