いい子でいるためには、自分など無いほうがいい
人によって態度を変える。
これは誰しも日常的に行っていることだ。
親、先生、友達、知らない人、それぞれに別の対応をするだろう。
人間は様々な顔を持っている。
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とりわけ私は自我が薄いので、基本的に人に合わせた態度を取る。
上に挙げたような、自分と相手の役割的な関係によって変える態度(先生なら礼儀正しく、友達なら親しく)とは別に、その人の性格や振る舞いに合わせた態度を取る。
活発な人には元気に、落ち着いた人には冷静に、相手と同じ様に。
人の顔色を見て行動することは、幼い頃からの癖だ。
初めの相手は両親だったのだが、恐怖の対象である彼らの顔色を見ることは、身を守るために必要不可欠なことだった。
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自我が弱いのは、《いい子》でいることに必死だったからだ。
我儘だと思われないようにするためには、意志など無いほうがいい。
黙って言うことを聞き、相手のことを受け入れれば、衝突は起こらないのだから。
同調することは最も簡単な人付き合いの術だ。
自分を捨てて、相手を受け入れることで、相手も自分を受け入れてくれる。
我慢さえすれば、いい子でいられる。簡単な方法だ。
何も考えなければいい。
「黙って『はい』と言えばいいんだ。」
とあることで対立した際に発された父の言葉である。
私は言葉を持つ意味が分からなくなった。
黙っていればいい。
受け入れればいい。
自分の意見を曲げない人を説得する労力はとても大きい。
黙って受け入れれば、それだけで問題が片付く。
楽だと思った。
そしてそれが癖になった。
人と対立しそうになれば自分を引っ込める。
いつからか当たり前になり、自分を軽視し追いやるようになった。
態度は相手を模倣し、望まれる返事を想像して応える。
自分を閉じ込めるうちに、生きる実感は薄くなっていった。
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自分を奥深くに隠し続けると、なかなか見つけるのが難しくなる。
《私》が必要になる場面で、困ってしまうのだ。
さあ君は何がしたいの、と問いかけても、何も答えがない。
自分をどこに閉まったか思い出せない。
出ておいでと呼んでも、何も反応がない。
私はもうどこにもいないのか。
やっと危機感に気付くのがこんな状況になってからだとは。
周囲からやたらと《いい子》と言われていたものだから、危機意識を持てなかったのかもしれない。
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これから自立して生きていきたいなら、自分探し(通常使われる意味とは少しズレているが)をする必要があるだろう。
いい子でいるだけで生きていけるのは、子供のうちだけなのだから。