美大という恵まれた環境にいながら、何故不幸なのか
自分の子どもが美大へ行きたいと言ったら、普通の親はどう思うだろう。
美大なんて、学費は高いし、職に繋がるか分からないし、だいたい芸術なんて道楽でしょう。
そう考える人は多いと思う。
もし賛成してくれるとするならば、それは
経済的に余裕がある
芸術に理解がある
子どもに好きなことをして欲しい
手に職をつけて欲しい
といった様々な条件を必要とするだろう。
実際美大に通う人の多くは、それなりに裕福な家庭で育っている。
また親が芸術系の仕事に関わっているか、芸術に興味がある場合が多い。
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美大に行けるかどうか。
最初の関門として、まず〝目指す〟ことを許されるか、許されないかという《親の問題》が立ちはだかる。
さらにそこから有名美大に行ける割合は、実力的な問題でさらに狭まる。
そういったことを踏まえると、美大に通えている時点で、世間的に見れば相当恵まれた立場にいることは間違いないと思う。
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それでも実力主義の上で成り立つ世界に浸っていると、自分がいかに恵まれているかということを忘れてしまう時がある。
作品に点数をつけられ、皆の前で投票され、目に見える形で順位を晒される。
競争があるところには、勝敗がある。
常に切磋琢磨する。
そういった環境でこそ闘志が燃えて、モチベーションを保ちながら走り続けられる人はいいかもしれない。
しかし競争することが好きではない人間は、だんだん疲弊してしまうのだ。
良いものが作れない、良い評価がもらえない。
価値のない作品しか作れない自分も、価値がないのではないか。
教授は呆れていないだろうか?
皆から見下されているのではないか?
どうしてこんなものしか作れないんだ。
どうしてセンスがないんだ。
どうしてやる気が出ないんだ。
本当は好きではないのか?
向いていないから取り組めないのでは?
いつまで恥を晒し続ければいいんだ。
自分のプライドや自意識ばかりに目が向いて、視野狭窄に陥る。
苦痛で全身が満ちてしまうと、自分の置かれた立場を客観視することができなくなる。
私は才能が無く、努力もできない。
辛い。
辛いから私は不幸だ。
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しかしそんな時意識のどこかが囁く。
お前は自分がどれだけ恵まれているか分かっていない。
美大に行きたくても行けなかった人がどれだけいるか。受験で落ちた沢山の人の無念はどれだけのものか。
ここで挫けて辞めるくらいなら、彼らにその立場を代わってもらえばよかったのに。
その囁きを聞くと、私は罪悪感で胸が一杯になる。
不幸だなんて、何を言っているんだろうか。
他人を押しのけてまで進んできたからには、責任があるのではないか。
経済力がない家庭に生まれた。
理解のない親のもとに生まれた。
だから美大を目指せなかったの?
運がなかったね。
親は許してくれたけれど、
絵が下手だから受験に落ちた。
才能と努力が足りなかったんじゃない?
仕方ないね。
そう思う人もいるかもしれない。
美大に入れたのは自分に実力があったからだと。
自分が優れていたからだと。
間違いだと言いきれない部分もあるかもしれない。
しかし私は、自分が今美大という環境にいられるのは、本当に様々な条件を越えて、多くのこと許されてきたからだと思っている。
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自分自身の実力不足から来る不幸感と、自分自身を客観視した際に分かる感謝と、その板挟みになりながら、制作をしている。
もしかしたら今は不幸感の方が勝っているかもしれない。
制作には、感情が大きく影響する。
いつの日か、自信を持って制作に取り組めるようになり、自分を取り巻く全てに心から感謝できるようになりたい。
自分が恵まれていることに責任を持てるようになりたい。
罪悪感よりも、感謝を胸に抱きながら生きるのだ。