美大生であることに疲れ果てた
美大生なのに、何をするのも億劫で、興味が持てず、好きなものすら分からない、燻る日々を送っている。
作品など作れない、作りたくもない状況で表現者として失格というところまで落ちてしまった。
せめて別の方法として、文字を書くことも立派な自己表現だと思い、何とか書いてみたい。
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いつからかそれが苦痛にしか感じられなくなったのは、作品を通して自分自身を眼前に突きつけられる日々に耐えられなくなったからだ。
私は自分のことが嫌いだった。
ではなぜ、いつから自分のことが嫌いだったのか?
思えば幼少期から人に怒られたり嫌われたりすることが何よりも苦手で、神経質で、他人のことばかり気にする性格だった。
そうなった要因の1つとして考えられるのは、両親との関係だ。
父は大企業勤めの昔ながらの厳格な日本人。母は家事を全て一人でこなす真面目な専業主婦。
これだけ見れば世間には良くある家庭だと思う。
両親は二人揃って子を何よりも第一に考える人だった。
子の幸せ、成功が全てだった。
両親の目はいつも私達(兄弟がいる)に向けられていた。
勿論多くの親にとって子は身を捨てても守りたい優先順位の高い存在であり、また幸せを与えたいと強く望むだろう。それが正しい姿であると言っていいと思う。
問題だったのは、その幸せがとても限られたものであったことである。
親の幸せを望む意志が、常に私の意志より先回りし、道を示していたため、それ以外への寄り道をしなかった。
小学校卒業後は女子校へ進んだこと、美大に進んだこと、あまり深く考えずに取り組んだ。
用意される課題にただ取り組み、与えられるものをこなす力はついたかもしれないけれど、新しく何かを発見しようだとか、やってみようだとか、積極的な行動を起こすことはほとんどなかった。
渡される課題をひたすらこなし、優秀な成績を取ることが成功だと、それが間違っていると心のどこかで気付きながらもそうする以外分からなかった。
私はデザインを専攻しているのだが、試験や課題は独創性が求められるように見えて、実は毎年同じことの繰り返しなため前例が沢山ある。
その模倣がそこそこ出来て、提出さえしていれば良い成績は取れる。
私は課題を提出するということにだけは全力だったため、成績は良い方だ。傍から見れば真面目な学生だっただろうと思う。
しかしデザイナーとしての実力はどうだっただろうか。嫌々課題にだけは取り組んだけれど、その反動で自主制作はしなかったし、楽しいと思って取り組んだことはない。
これではいいものが作れるはずもなかった。
良い成績は真面目ちゃんへのサービスだったのだ。学校とはそういう場所だ。
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頑なに課題を出し続けたのは、怒られるのが怖いという気持ちから始まっていた。
両親は言うことを曲げない人だった。反論は許さず、話を聞くこともなかった。何故なら彼らは私の幸せのために行動しており、そしてそれが間違っているはずがないからである。
先生の言うことを聞く、良い成績を取る、真面目にいい子でいる、逆らわない…
これらの美徳を絶対のものとして掲げる。間違いなんてどこにもないはずだ。
しかし私はそれらを中途半端に身につける代償に自主性と活力を失ってしまった。
中高時代はそんな自我に苦しんだ。
そんな状態で、たまたま美大を受け、受かってしまったことが間違いの始まりだったのかもしれない。
芸術家は親の望む将来の一つだった。(残りは医者、教師など)
何となく絵を描くのが好きで、何となく美大っていいなぁと口に出したのだが、芸術家に大賛成の親はすぐに私を塾へ入れてくれた。
そこから3年間強、何となくから始まった美大受験勉強は続いた。
塾に通い初めて2年目、およそ受験から1年ほど前あたりから、
《私は受験という課題の中ではお利口にしていられるけれど、いざ自由に作品を作ることになったら何をすればいいのか?》
と心に浮かび始めるようになっていた。
しかし軌道修正は間に合わない時期で、他にやりたいことが特にないということから、濁流に飲み込まれそのまま受験に臨んだ。
もしかしたら大学生活の中で変われるかもしれないという期待に縋って現実逃避をしていた。
しかし、その期待は甘かったと知る。
自主性や活力は勝手に湧いてくるものではない。
内側から放たれるものだ。
環境が変わっても、自らが変わらなければ軌道は動かない。
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このままでは紙切れ1枚の成績表だけが私の救いになってしまうだろう。
誰かにレールを敷いて欲しい。
ただ従うだけで良い評価を貰える世界が私にとっては一番居心地の良い場所だ。
美大は自主性が求められる場所である。
受験という課題をクリア出来ても、その先の歩みは自分で行うものだ。
ルールや課題、親の言うことばかりに囚われて自分からは何もしなかったことが、1歩を踏み出せない、その方向すら分からない現状を作り出してしまった。